由利公正

由利公正 は、文政12年(1829年)、福井藩士・三岡義知(100石)の嫡男として越前国足羽郡福井城下(現・福井県福井市)に生まれました。

嘉永6年(1853年)に家督を相続。福井を訪れた横井小楠の殖産興業策に触発され、横井から財政学を学び、橋本左内らと国事に奔走し、藩主・松平慶永から

財政手腕を評されて抜擢され、藩札発行と専売制を結合した殖産興業政策で窮乏した藩財政を再建しました。 松平慶永が、幕府政事総裁職に就任すると、

慶永の側用人に就任しました。

長州征伐では、藩論を巡って対立した征伐不支持と薩摩藩や長州藩など雄藩支持の両派の提携を画策したものの、支持が得られず福井にて蟄居・謹慎処分となり

ました。 謹慎中に坂本龍馬の来訪を受けて交流を深め、坂本とは新政府が取るべき経済政策について談義し、このことが後の新政府への参画に結びつけになりま

した。

 明治維新後は、土佐藩の福岡孝弟らと共に五箇条の御誓文の起草に参画し、公正が作成した「議事之体大意」が原文となりました。

新政府では徴士参与として、金融財政政策を担当し、会計事務掛・御用金穀取締として、会計基立金募集や太政官札発行、商法司設置など積極的な政策を推進しま

した。 しかし、太政官札の流通難など政策に対する批判が高まった結果、明治2年(1869年)に辞職するに至りました。 明治4年(1871年)に東京府知事に就任し、

翌年の明治5年(1872年)5月の岩倉使節団の随行に加わりアメリカ、ヨーロッパに渡航し、各国の自治制度・議会制度などを研究し、明治7年(1874年)、板垣退助や

江藤新平らと共に、民撰議院設立建白書を政府に提出しました。 明治8年(1875年)に元老院議官に任ぜられ、明治20年(1887年)5月24日に子爵に叙せられました。

明治23年(1890年)には貴族院議員となり、同年10月20日、麝香間祗候となりました。