橋本左内

 
 

越前国福井藩藩士、江戸時代幕末の思想家

 

天保5年3月11日1834年4月19日) 生誕

安政6年10月7日1859年11月1日) 歿 
安政の大獄で斬刑  享年25歳
 
著書 : 啓発録(1848年
 
 
幕末という時代において、井伊直弼大老により行われた「安政の大獄」ほど、あた
ら多くの有志を亡くす結果となった/凄惨な事件はないでしょう。
吉田松陰、頼三樹三郎等、死罪になった者が七名、その他遠島、謹慎、追放等の処
罰を受けた者がおよそ六十名。これらの結果を見れば、 いかにこの事件が未曾有の
大獄であったのかが分かります。
安政の大獄で、西郷が最もその死を悼み悲しんだのが、越前福井藩士の橋本左内で
す。西郷が、左内の刑死を知ったのは、西郷自身が安政の大獄の影響で、奄美大島
に身を隠して、生活している時でした。
西郷は、万延元年(1860年2月28日) 付けで、誠忠組の同志である、大久保利通、
税所篤、有村俊斎、吉井幸輔の四名に宛てた手紙の中で、左内の死について次のよ
うに書いています。
「橋本迄死刑に逢いそうろう儀、案外、悲憤千万堪え難き時世に御座候」この手紙
の文面を読めば、いかに西郷が、橋本の死を惜しみ、そして悲しんだのかが、分か
るのではないかと思います。
 橋本と西郷の最初の出会いは、安政2年(1855年)12月27日のことでした。
場所は江戸、水戸藩士・原田八兵衛の屋敷で、二人は初めて対面しました。
橋本は、その時の西郷の印象を、次のように書き留めています。「薩 芝上屋敷御
庭方 西郷吉兵衛 鮫島正人友人、卯年極月二十七日始於原八宅御座候、相会す、
「燕趙悲歌之士」とは中国の故事で、簡単に訳せば「時世を慷慨する者」という意
味として考えれば良いと思います。
西郷は前年の安政元年(1854年)1月に、「中小姓・定御供・江戸詰」を命ぜられ
、同年4月に庭方役に任命され、その頃江戸薩摩藩邸に勤務していました。橋本の
手記から考えると、橋本は初めて対面した西郷のことを、ただ時世を慷慨するだけ
の血気盛んな若者、という印象しか持たなかった事が分かります。
後年の西郷は、人物の押しも堂々とし、体中から、圧倒的な重厚さを醸し出した人
物ですが、橋本と初対面した当時の彼は、攘夷に騒ぐ、一般の志士達と同じように
に、ただ血気盛んな若者にしか、見えなかったのでしょう。西郷も一人の人間です
から、普通の人々と同じように、こういった血気盛んな時期も当然あったのです。
さて、橋本左内の方ですが、左内は天保5年(1834年)3月、越前福井藩で奥医師を
を務めていた、橋本長綱の長男として生れました。不思議と、幕末に活躍した 人物
の中には、藩医や医者の子弟という、経歴を持つ人が多いです。これを持ってして
も、幕末という時代は、身分の上下も、職業も経歴も、全てが一気にひっくり返っ
た、激動の時代であったことが、うかがわれます。
話が少しそれましたが、左内自身は医者の家に生まれた事を、余り良く思っていな
かったようです。左内が15歳の時に著した、『啓発録』という書物の中で、医者の
家に生まれた自らの境遇を、嘆いている一文があります。 左内が16歳の冬、大坂
で緒方洪庵が主催する「適々斎塾」に、蘭学修行に出かけたことは、非常に有名な
話です。この蘭学修行中、左内は、横井小楠や梅田雲浜といった、当時一流の学者
と交流しています。このことが、後年、左内が国事運動に関わるきっかけとなった
かもしれません。
安政2年(1855年)、左内は医員を免ぜられ士分に列せられて、書院番となりまし
た。医者の家に生まれた事を、嘆いていた左内にとって、ようやく念願が叶った、
一瞬であったことでしょう。
士分に列せられた左内は、同年11月に江戸出府を命じられます。藩主・松平慶永か
ら、その洋学の才を大いに買われたためでした。 そして、左内はその江戸出府中
に、西郷と初めて対面したのです。 左内の活躍は、この頃から始まったと言えま
ましょう。
西郷と左内が、共に手を携え、最も活躍したのが「将軍継嗣問題」です。
将軍がダイガワリすれば、その「ケイショウ(世継ぎ)」を、誰にするかというこ
とは、その都度、問題となるのは当然のことですが、幕末で言う「将軍継嗣問題」
とは、江戸幕府第13代将軍、・徳川家定の世継ぎに関することを指します。
 家定は心身共に、虚弱な体質の人物で、一説では言語 すらもままならなかったと
伝えられています。家定が将軍に就任した当時は、欧米列強の諸外国が、次々と日
本に開国を求めるなど、江戸幕府開幕以来の重要問題が山積していました。
心身共に虚弱な家定に、それら外交問題を解決出来るはずもなく、そのため志ある
諸大名・幕閣らは、リーダーシップを十分に発揮出来る、優秀な人物を世継ぎ、つ
まり将軍にすることで、この国難を乗り切ろうと考えたのです。
薩摩藩主・島津斉彬、越前福井藩主・松平慶永ら、当時賢侯と呼ばれた大名らは、
御三家に次ぐ身分の御三卿である、一橋家の当主・一橋慶喜、後の徳川慶喜に白羽
の矢を立て、彼に家定の跡を継がせるべく、運動を始めました。
しかし、それに対抗し、当時まだ10代半ばであった、紀州藩主の徳川慶福を、跡
継ぎに据えようとする運動が、紀州藩の付家老・水野忠央を中心に、開始されたの
です。慶喜を擁立する一橋派と、慶福を擁立する紀州派は、互いに各方面で、激し
い運動を始めました。
一橋派の中心人物であった慶永は、左内を、斉彬は、西郷を懐刀 として使い、「将
軍継嗣問題」に奔走させました。 特に左内は、幕閣対策や朝廷工作にも携わり、
広範多岐に渡って、懸命な運動を続けました。
また、西郷とは互いに連絡を取り合い、互いの藩主の命に従い、慶喜擁立に努力し
たのですが、二人の運動は、一人の巨人の登場により、大きく阻まれることとなっ
たのです。それは、彦根藩主で、大老に就任した井伊直弼です。 安政5年(1858
年)4月に、大老に就任した井伊は、独断で紀州藩の慶福を、家定の世継ぎに決定
し、慶喜擁立に動いた諸大名や藩士達を、一斉に処罰し始めました。
これが世に言う「安政の大獄」です。 薩摩藩では、藩主・斉彬が急死し、西郷は
安政の大獄の影響で、僧、月照と共に、京都から脱出しますが、最後は鹿児島で入
水自殺を計ることになります。一方の福井藩では、藩主・慶永が、隠居謹慎を申し
付けられました。
そして左内は、安政6年(1859年)10月7日、「公儀憚らざるいたし方、右始末不
届付」、との理由で死罪を命ぜられ、江戸伝馬町の獄で、斬刑に処せられたので
す。橋本左内、享年25歳。若き天才の早過ぎる死でした。
明治10年(1877年)9月24日、西郷隆盛は、故郷鹿児島の地において、その長い生
涯を終えました。 自刃した西郷が携帯していた革文庫の中に、一通の手紙が収め
られていました。 それは、西郷と左内が「将軍継嗣問題」に、奔走していた頃に
書かれた、左内からの西郷宛の手紙でした。西郷は、左内の手紙を亡くなるその瞬
間まで、肌身離さず持っていたのです。
西郷にとって、橋本左内という人物は、一生忘れることの出来ない 同志であり、永
遠の友人でもあったのです。